2014/10/06

村岡平吉をごぞんじですか?

ご存じですよね。今年度上半期のNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』のモデルになった翻訳家村岡花子の義父、村岡平吉です(1852~1922.5.20)。平吉が生まれたのは現在の横浜市港北区小机町でした。明治の初年に東京へ出て印刷業の職工として修業し、その後、横浜・山手の外国人居留地内にあったフランス系の新聞社に勤めた頃、キリスト教に接し、1883(明治16)年、横浜住吉町教会(現在の横浜指路教会)でG.W.ノックス牧師から洗礼を受けています。その4年後、1887(明治20)年に平吉は上海に渡り、印刷工場で働きながら1年間、外国語活字を組み立てる技術を身に着けます。帰国後、横浜製紙分社という出版社に10年間勤め、1898(明治31)年に独立。中区山下町にキリスト教書籍専門の「福音印刷」という印刷製本会社を創業しました。この社名は福音主義(=プロテスタント)から名付けたものと思われ、平吉の信仰と仕事とが一体となっていたことが分かります。平吉は、聖書や讚美歌、キリスト教関係の書物をたくさん出版しましたが、国内は素より、インド・中国・フィリピンなどアジア諸国の聖書も一手に扱い、「バイブルの村岡」とまで呼ばれました。

他方、平吉は1897(明治30)年に横浜指路教会の長老に選出されます。この教会は、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士の塾で学んだ青年たちが中心となって設立された教会でした。そのヘボン博士が1911(明治44)年にアメリカの自宅で亡くなったとき、指路教会では追悼会が開かれ、村岡平吉は長老として祈祷をささげもしたのです。

平吉は1922(大正11)年に亡くなり、翌年の関東大震災では横浜本社が倒壊、多くの社員が死亡しました。幸い、東京本社にいた息子儆三(花子の夫)は生き延びましたが、東京本社の社屋も震災後の大火で類焼しました。しかし、儆三がやがて新しい会社を設立し、妻の花子は翻訳家として『赤毛のアン』を三笠書房から出版することになったのです。その意味では、カナダ人宣教師の祈りだけでなく、キリスト者村岡平吉の祈りも『赤毛のアン』には込められていたのだと思います。