2015/07/05

荒 城 の 月

「ではお先に行きます。お父さんお母さんご機嫌よう――もう目が見えなくなりました。」(滝廉太郎 最期の言葉)

今から112年前(1903629日)、『荒城の月』の作曲で知られる滝廉太郎が結核のため大分市の自宅で亡くなりました。23歳でした。

『荒城の月』は土井晩翠の詩に廉太郎が曲を付けたものです。廉太郎は15歳で東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学したのですが、文部省が中学生用教科書「中学唱歌」を編纂することになった時、同校が歌詞を公開し、それに付ける曲を募集したのです。その時、既に音楽学校の研究科生になっていた廉太郎も応募。すると見事採用されました。その内の一曲が『荒城の月』だったのです(廉太郎はこれにより賞金15円を得たと言われる)。

そんな順風満帆の青春時代、廉太郎は東京麹町にあったグレース・エピスコパル・チャーチ(現日本聖公会聖愛教会)で洗礼を受けています。21歳の秋でした。司式は当時の立教学校(現立教大学)の維持・発展に努めたジョン・マッキム主教。廉太郎はその後、オルガンで礼拝奏楽もしていたそうです。

19014月、廉太郎は日本人の音楽家では二人目となるヨーロッパ留学生としてライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に留学しますが、その僅か二ヶ月後に肺結核を発病。一年で帰国を余儀なくされました。その後、療養を続けていましたが冒頭の言葉を遺して就眠したのです。

なお『賛美歌・唱歌とゴスペル』(大塚野百合著、創元社)によると、遠くベルギーのシュヴトーニュ修道院(カトリック&正教)では、廉太郎の「荒城の月」のメロディーで「ケルビム賛歌」なるものが歌われているそうです。滝廉太郎作の讃美歌とは言えませんが、あの「荒城の月」の曲で歌う讃美歌がある、とは知りませんでした。日本でもいつか採用されるといいですね。