2018/01/02

大胆に罪を犯しなさい

横須賀出身のマンガ家福本伸行さんの傑作『カイジ』は、主人公のカイジをはじめ一度は人生に敗れた者たちが、一発逆転を狙って、命がけのギャンブルに挑むというお話ですが、その第7巻に次のようなゲームが出てきます。2棟の隣り合った高層ビルの間に平均台ほどの幅の鉄骨が渡されています。これを首尾よく渡り切ったら、大金が手に入ります。それを元手に、人生をやり直すことができるのです。しかし、もちろん、落ちてしまえば命はありません。

この鉄骨が地上1mのところに渡されているのなら、誰でもラクラク渡り切ることができるでしょう。でも、地上100mでは、そうはいきません。意を決した何人かが、渡り始めますが、もし落ちたらと考えたとたん恐怖にとりつかれ、足がすくんでしまいます。こうして、ほとんどの挑戦者が落ちてしまうのです。失敗してはいけないと思うと失敗し、失敗しても大丈夫と思うと失敗しない。面白い逆説です。セーフティーネットがあれば、人間は勇気が出せるのです。


500年前、マルティン・ルターは、「信仰義認」を説きました。人が神様の前で義と認められるのは、その人の正しい行いによってではなく、ただ信仰によってのみなのだ、と教えたのです。ただし、「信仰によって」というのも、「私が信仰を持つことによって」と解してはならないでしょう。それでは、信仰という私の正しい行いによって救われるということになってしまうからです。そうではなく、信仰それ自体も、神様の導きによるものと考えるべきです。キリストは「おまえはもう赦されている」とおっしゃってくださる、そのことを信じさせていただくのだ。そうルターは教えたのだと思います。

そのルターに「大胆に罪を犯しなさい」という言葉があります。ルターが、学究肌で、改革運動を担う運動家としては少し慎重すぎる友のメランヒトンに贈った言葉です。もちろん、ルターは、罪を犯すことそれ自体を奨めているわけではありません。私たちはキリストによって、すでに罪を償われている。だから、友よ、失敗を恐れず、大胆に歩め。そういう友情に満ちた励ましなのです。

神様が求めておられるのは、失敗をしないように、安全な場所に閉じこもってしまうような生き方ではなく、はたまた「私、失敗しないので」と言えるほど、自分を完璧に磨き上げるような生き方でもありません。罪を犯さざるをえない私たちが、それでもみ心にかなわんとして果敢にチャレンジするような生き方だと思うのです。神様は、私たちのためにセーフティーネットを用意してくださっているのですから。