2018/03/05

ありがたいか、当然か

オーストラリアでは自家用車で幾つもの州をまたいで旅行をする人が多いそうです。しかし、隣りの休憩所まで何百キロ、という看板も珍しくはないとのこと。そのため、休暇の時期になると様々な休憩所が設けられ、旅行者にボランティアたちが無料のコーヒーをふるまう、と聞きました。ステキなおもてなしですね。

ある夫婦が、これらのもてなしも楽しみにしてドライブ旅行に出掛けました。ところが、ある休憩所で2ドルの請求をされてしまいます。理由を聞くと、横の看板を指差されました。そこには「運転手だけ無料」と書かれてあったのです。助手席に座っていた夫はムッとして、お金を払いながら「紛らわしい!」と捨て台詞を残し、立ち去りました。しかし、車中で妻からこのようにたしなめられます、「コーヒーは好意の恩恵なのに、あなたはそれを当然の権利であるかのように振る舞った」と。その通りでした。助手席の夫は妻に頼み、先ほどの休憩所まで車で戻り、謝罪しました、「無料のコーヒーはあなたからのプレゼントでした。もらって当然のものではなかった。実にありがたく、感謝すべきものでした」と。


与えられているものに対して「ありがたい」と考えるか「当然」と考えるか。それにより、人の生き方や態度は随分と変わるように思います。コーヒーだけではありません。ユダヤ人は、どんなに簡素な食事でも、食べるときには必ず感謝する習慣をつけていました。「わたしたちの神、主よ。大地から日々の糧をもたらす全世界の王よ、あなたをほめたたえます」と。食べ物はすべて神さまの恵みですからこのように受け止めて祈るのは当然と言えば当然です。しかし、いつでもどこでもどんな食事であっても、このように受け止め祈るというのは、その習慣が身に着いていないと難しいことでしょう。それだけに、このような祈りを聴きながら育つユダヤの子どもたちは本当に幸せだと思います。ちなみに、この祈りはモーセがイスラエルの民を約束の地へと導いたときにまで遡れるのだそうです。「(神が)良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」(申8.10)。そしてこのような祈りが「自分たちの繁栄は自分たちの努力の結果」と考える傲慢を戒める知恵を生みました(申8.17-18)。


日頃から受けている何気ないサービスに、真摯に感謝する心を抱きたいものですね。ボランティアに対してもそれを当然(当たり前)ではなく、「ありがたい」(有り難い)こととして受け止めていきたいと思います。